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   鷲見和広 の生い立ち
幼少・少年時代
料理時代
JAZZを始めて
セッションの日々
魚釣り
Walter Norrisとの共演
僕の考えるJAZZ
New York Blue Note
(このページ内のほとんどの画像はクリックしたら拡大されます)


    幼少・少年時代

1967年2月27日、鳥取県米子市に生まれる。

物心がついた頃は、まだ百円札を使ってました。風呂は五右衛門風呂(板の上に乗って湯ぶねに浸かる)。便所も床に四角い穴が開いてて、その両脇に板が2枚。原始的な“ドッボン便所”でした。もちろん場所は家の外。

その当時、カラーテレビのある家は少なかったので、友達の家にテレビを見に行った思い出があります。
あと、家に
電話も無く、近所の人の処に電話がかかってくるのです。歩いて「電話ですよ〜!」って呼びに来るのが当たり前の時代でした。
 
僕が子供の頃には既にインスタントラーメンがありました。なんでもそうですが、初代の物が一番いいですね!ラーメンならチキンラーメン!
楽器も何故か当初の物の方が優れています。(これだけ科学が進歩しているのに何故でしょう?)
 
よく聞かれる事があります「鷲見三郎さんの親族ですか?」って。。。
1902年生まれの鷲見三郎氏(1984年没)は伝説のヴァイオリン教師。ある時期、日本の著名バイオリニストのほとんどが「鷲見の門下生」といわれるほど、傑出したバイオリン指導者だったらしいです。


その鷲見三郎氏も同じ米子市出身
米子市尾高町で22歳まで生活をしてらしたみたいです(尾高町は米子市街地から大山“だいせん”に行く途中にある集落)。
右の画像は、
同じく米子市尾高町にいた頃の鷲見和広です。同じ姓・同じ場所で育ちましたが、親戚でも何でもないのが残念。。。 
 

右上の画像は、僕が幼稚園に入園する前。嬉しくて新しいカバンを提げて記念撮影しました。その時の事は今でもよく覚えています。しかし、入園前なので、きっと三月。なんで上半身裸なんだろう??暑かったのかなぁ?

しかし、幼稚園に行っても人と仲良くなれず、喧嘩をするばかりで月のうち半分くらいは休んでました。


小学校に入っても喧嘩ばかりするので、先生に怒られる為に学校に行くようなもんでした。だから小学校もよく休みました。たまに帰省した時、当時住んでいたその所を車で通ったりするけど、すごく道幅が狭いと感じます。子供の頃はそんなこと思わなかったけど…。子供の目線と大人の目線は違うんですね。

この小学校には1年生の時だけ通い、引越しをしたので2年生の時に違う小学校に転校しました。
もちろん知らない生徒ばかり。田舎だったので転校生が珍しいのか、皆ひそひそしながら僕を見ています。そんな中、
一番最初に声をかけてくれたのが“K”君だった。
その“K”君は学年一の悪ガキだったけど、その
K君とは最も仲が良い親友になりました。彼のやる事は滅茶苦茶。学校にもローラースケートや自転車で来たり…。
僕は親に“
K”君とは遊ぶなと言われもしました。彼は勉強もまったくしなかったし、先生の言う事も聞かなかったけど、僕の言う事はよく聞いてくれた。

僕は筆箱とかも買ってもらえなくて、小学校のホームルームの時間の話し合いで、「鷲見君に筆箱を買ってあげるように、鷲見君のお母さんに頼みに行こう」などという議題が上がるほど、あまりいい育てられ方をされませんでした。
ご飯もちゃんと食べさせてもらえなかったので、
給食が何よりも楽しみだった(鯨の生姜焼き、美味しかったなぁ〜)

その小学生の頃に、カルビーのポテトチップスが発売された事もよく覚えてます。その当時は品質が安定してなかったのか、ハズレに当たったら凄くニガイ味の物がよくありました。最近はもうそんな事ないけどね。


中学校からは、当然ちょい不良(ワル)。
K”君と遊んでたら仕方ないかぁ(笑)
僕が通ってた中学校は給食があったので、それは凄く助かりました。夜ご飯は、白飯の上にスナック菓子をかけて食べたりしてたから…。
実はこの食生活、僕がJAZZの道に進むキッカケになりました。(後述)
 

僕は高校に進学したけど、“K”君は料理の修業に住み込みで働きに行きました。それでも休みの日は決まって遊んでた。右の画像は高校一年生の頃、米子のバーで飲んで酔っ払ってるところ。彼との2ショットは後にも先にもこの一枚しかないです。
高校に入ったら給食が無いので、みんな弁当か食堂で昼メシを食べるけど、僕は毎日、弁当箱に白飯だけ入れて持って行き、おかずは人に少しずつ(強制的に?)分けてもらって食べてました。(皆には凄くイヤがられたけど…)

またこの頃には色んな出来事がありました。国鉄がJRになったり、500円硬貨が出来たり…(しかし、あの2千円札はどこに行ったのでしょう?)。
  
高校時代には一通りの悪い事をしたかな?
お酒・ワンカップの自動販売機、昔は取り出し口から手を入れたら抜き取る事ができたりした。ネットで時効の期間を調べたけど、僕がやった事はすべて時効になってるみたい。でも、わざわざ喋ることもないので黙っておきます(汗)

僕は高校3年生の
卒業間際に3回目の停学処分になったけど、毎日反省文を書いて学校に送った為に無事卒業が出来ました!もう一人同じように3回目の停学処分になった友達がいたけど、反省文を書かなかった為に退学になりました。残念。。。  

高校(工業高校だった)も卒業シーズンになり、僕の科(工業化学科)の生徒達は化学関係のいい会社(鐘紡・京セラなど)に就職していきました。

僕は普通の会社に就職する気はまったく無く、子供の頃から
大人になったら美味しい料理を腹いっぱい食べたいとの夢を達成する為に調理師になろうと決めてました。(これには“K”君の影響もあるのかな?)
 

 
料理を勉強するには“天下の台所”大阪しかない
と思い、好きな米子と別れて大阪に行く決心をしました。大阪行きの高速バスに乗り出発する時、たくさんの後輩達が見送りに来てくれた。
僕は“お山の大将”だった
けど、後輩の面倒はよくみてたので、見送りに来てくれた事が凄く嬉しかった。

バスが出発して、米子と別れること、仲間と会えなくなること等が悲しくてずっと泣いてしまった。本当に皆が好きだったから。

米子の変わってるところは、元旦からぜんざいを食べる。“雑煮”といえば“善哉”である。あと、羊の肉(マトンやラム)を普段から食べる。大山(だいせん)のふもとの街だからかな?

大阪では専門店しか売ってなく高いが、米子はスーパーで安く買える。子供の頃は安いからマトンばかり食べていた。

最後に、
K”君との2ショットは後にも先にもこの一枚と書いたが、彼は平成12年12月12日に自ら命を絶った。とても悲しい出来事で、涙が枯れるまで泣いた。

僕の右目の斜め上に傷がある。小学校2年生の時に野球をして遊んでる時に、“
K”君の振ったバットが思いっきり当たった。血が噴き出し救急で病院に行ったけど、この傷は一生消えない」とお医者さんに言われた。
  
もっといい物を残して欲しかったな…。
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   ━ 料理時代 ━

とりあえずは高校にきてた求人募集から、大阪“かに道楽”に入社。勤務店は今はもう無くなった“えび道楽(現在の、かに道楽中店)でした。

大阪に行く時に、今はもう亡くなったお祖母さんが10万円の餞別をくれたので、そのお金でスーツ・シャツ・ネクタイ・靴を買って、かに道楽チェーンの入社式に出ました。

寮は大阪・ミナミの道頓堀沿いを西に15分くらい歩いた場所にあり、電車の時間を気にする事もなく、ミナミでブラブラ遊べる環境で生活がスタートした。

かに道楽はカニしか扱わないけど、えび道楽はもちろんカニ料理もあるが、エビ料理との両方を扱っていて、
後にその経験が生かされる事になりました。
車えびや伊勢えびの扱い方も、そこで覚えました。

半年くらいした頃から、一階の
天ぷらカウンターで天ぷらを揚げるようになりました。お客さんの目の前で揚げて、カウンターに座ってるお客さんの皿に直接盛る。そんな事をしてました。(寿司カウンターみたいなものです)
 

そんな僕はえび道楽を一年間で辞め、本来やりたかった中国料理に転向しました。
もうその頃には独り暮らしを始めてたので、住む所に困る事も無かったし、自由に出来るようになってました。しかも、景気が良かったので働く場所はいくらでもある状況でした。

中国料理の初めの店は阪急産業(株)が経営する高級中国料理店に入社。そこでは2つの店舗で働いたけど、下働きばかりで料理を作らせてもらえないのでスグに辞めました。
ちょうどその時、中国人の料理人と出会いがあり、その人のもとで修行をする事になりました。そこでは出来る事は何でもやらせてもらえたし、メニューに載ってるだけでも数百種類の料理。あと宴会のメニューは、それ以外に数え切れないくらいあり、ゲテモノ料理等もがむしゃらにやりました。
僕は包丁さばきが得意で、主に切り場を任せれていたけど、忙しい時には400人くらいのコース料理全てを一人で切ってました。

前菜の材料の仕込みをし、大皿40枚に盛り付け、鯛の姿造りを40匹、スープの材料400人前、揚げ物400人分、肉料理・エビ料理・鳥料理等など、点心からデザートまで。。。(一卓7品〜10品くらい)
 
材料はバケツに山盛り。早朝に起きて一人で黙々と仕込みをする。金額と人数で、メニューも僕が任されてたので、一日中切ってました。中国料理は皿も大きく調理場のテーブルに載らないから、床に皿を並べて盛り付けしたり…。その間に一般のお客さんも来るので、その材料も切らないといけません。鶏も一匹のままでくるので、解体しないとダメだし、目の回るような忙しさでした。もう今では無理です。。。


そして、暇な時は
彫刻や彫り物、飾り切りなどもしました。元々手先が器用だったと思うけど、飾り包丁を使って花を作ったりは僕にしかできなかったので、プラスの給料を貰ったりしてました。
それと
重宝がられたのが、エビの殻剥き。えび道楽で働いてたので、とにかく早くて、普通の人の倍のスピードで剥けました。
(上の写真はメニュー撮影のために、全て僕一人で作った料理です)
職場柄、中国人が多く、日本語の喋れない留学生や、中国残留孤児のおっちゃん等が皿洗いのバイトに来たりしてたので、日常中国語を喋ることが出来るようになりました(字は読めませんが…)。休みの日はその中国人と二人で遊びに行ったり、飲みに行ったりもしました(今はもう喋れない。。。と思います)。



料理の仕事は、勤務時間が長く、朝から夜まで。その代わり、昼休憩が2時間くらいあります。働いてた店のスグ近くに
ジャズ喫茶(今は無き“バンビ”)があり、「近いから」だけの理由で大した意味もなく通ったりしてました。
「訳のわからん音楽やなぁ〜」と思いつつも、「一度ちゃんとJAZZを聴いてみよう」と思いレコード屋に行き、何を買ったらいいかも分からないので、ジャケットがカッコイイのを選んで買いました。その後、休みの日に生演奏(ライブ)を聴きに行き、すっかりベースに夢中になり、
ベースが弾きたい」と強く思うようになりました。

「ベースを練習するには今しかない」と思い、料理を辞める決心をしました。

「料理は30歳になってからでも出来るけど、ベースの練習を30歳からするのは無理」と思ったからです。料理の仕事は時間が長いし、休みの日が無い。
料理を辞めるのは、たくさんの人に反対されました。

料理人最後の日に、僕が仕込み時間に餃子を包んでたら、大将が「もう餃子を握ることもないかもなぁ…」と言った事を思い出します。

最近、繁華街に中国エステの客引きの姉ちゃんがいるけど、酔ってる時に彼女らに話しかけて、久しぶりに中国語を使ってみたけど、案外覚えてるので自分でもビックリしました(笑)


(ちなみに、調理師免許の大きさはB4サイズです)
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   ━ JAZZを始めて ━

料理の仕事をしてた頃は何軒が店を転々としたけど、その職場を変える途中の時期に車の運転免許を取りました。それが、料理を辞めてバイトやベースをする事に役にたったと思っています。運転免許が無かったら、今から書く“バイト&ベース生活”は出来なかったと思います。
料理をしてた時、スデにベースを買っていました。国産の一番安いヤツです(当時20万円)。


料理を辞めてから
始めたバイトは配達業(トラックの運転手)。やっぱり免許を取ってて良かった〜!!朝の9時から夕方5時までバイトをして、家に帰ったらチキンラーメンに、冷やご飯ともやしを入れて炊き込み、雑炊みたいに流し込むように食べて、ベースの練習に出発!
ベースを車に載せて大阪城公園へ。
公園沿いの道の歩道の街路灯の下で深夜まで練習。独学でビデオの物マネを頑張ってました。

小・中学生時代の音楽の成績は5段階で【2】。もちろん楽譜も読めません。でも、教則本を買ってきて一生懸命読みながら練習したり、レコードをカセットテープにダビングし、何度も繰り返して聴いて、音をとり(コピーをする)譜面を書いたりもしました。



鳥取県出身の僕は大阪に知り合いがいないので、音楽仲間がいる訳もなく、
JAZZ LIFE誌の“メンバー募集コーナー”に投函しました。ベースを弾きます。一緒にやってくださいと。そうしたら2人から葉書が届きました(今ならE−Mailかな?)。その2通の葉書は今でも大切に持ってます。

「とりあえずセッションしましょう」という事になり、音楽スタジオに集まりました。
僕は出来る(知ってる)曲が少ししかない状態でした。挨拶してから演奏準備ができたら、「曲は何をする?」と聞かれて曲名を言うと、次に「Keyは?」と聞かれ、「それじゃぁ」とスグに曲がスタートした。「この人達は譜面も見ずに、曲とKeyを言ったら何でも出来るのか?」

カルチャーショックでした。「この人達は何なんだ!?」と…。
今までは学生の頃、料理の頃とも自分の思いのままにやってきた“お山の大将”だったけど、一気に
奈落の底に落とされた気分。自分の力の無さをひしひしと感じました。



僕は、楽器を弾いて収入を得て生活をする(プロ)世界がある事も知らなかったので、ベースがそこそこ弾けるようになったら、また料理の仕事に戻ろうと思ってました。
ところが、前述のJAZZ LIFE誌のメンバー募集コーナーを見た
プロのベーシストの人から電話がかかってきました。仕事を頼みたいんだけどと…。

それは
僕達の業界で言う“トラ”
(本来の演奏の仕事があるけど、同じ日に他の仕事が入り、ギャラがいい・そっちの演奏の方が面白いなどの理由で、本来の仕事の方へ代わりの人に行ってもらうというもの)で、クリスマス時期だった為に誰もベーシストがいなかったから、僕のところへ電話をかけてきたのでしょう。

「楽譜にコード進行が書いてあるけど、それを見ながら弾ける?」と聞かれたので、「弾けると思います」と返事をしたらトラの仕事が決まりました。
記憶では12月の24日・25日の二日間で、譜面と蝶ネクタイを置いておくので、黒の礼服を着て来るように言われました(タキシードを持ってなかったので)。

ピックアップ(ベースの音をベースアンプから鳴らす為のマイク)も無かったので買いに行きました。

その初めての仕事の一日目は無事に終り、その
演奏後メンバーの人に言われました明日はもう来なくていいよって(笑)。よほどヒドイ演奏だったのでしょう。そして、ギャラの入った封筒を貰いました。後で中身を確認したら電話で聞いた金額より少なかったです。きっと、メンバーの人が中身を抜いて(業界ではピンハネという)渡されたのだと思います。そんな初仕事でした。



当時、練習スタジオでセッションしていたメンバーの人達はプロのミュージシャンとも交流があり、そのつながりで
ライブに顔を出させてもらえるようになりました。プロミュージシャンの人が誰かベースいない?と探してて、セッション仲間が僕を紹介してくれたのです。

そして、そこでまた知り合いができて、また他のライブで弾かせてもらい、また知り合いが増えるといった時期でした。

曲もまったく知らなかったので、がむしゃらに覚えましたとりあえず、その日に演奏した曲は、その日のうちにメロディーとコード進行を覚えて、全部のKeyで弾けるようにしていきました。
今となっては、その積み重ねで今の自分があると思っています。そして、これからも頑張り続けたいと思います。


Saumer
もうその頃には、本格的にベースを弾きたいという気持ちになっていて、楽器も新しく、旧東ドイツ製のSaumer(ザウマー)というベースを買いました。とても木目の美しい楽器でした。
いい楽器を弾いて気付いたのですが
自分の音程がめっちゃヤバイことが判明!バイオリン属の楽器はピッチ(音程)を自分でとらないとダメで、バイオリン程ではないが、ベースも1mm押さえる位置が違えばピッチがずれます。
 
いい楽器を持つほど楽器の事がよくわかるようになるように感じるし、いい楽器を弾く事が楽器の上達につながると思います。ある意味、楽器に上達させてもらうという感覚です。

そして、その頃には「料理に戻る」という気も無くなっていて、
プロのベーシストになろうと心の中で決めてました。キリがいい時期に運転手のバイトも辞めて、ベースを弾いた報酬だけでの生活を始めました。

それと同じような時期、「ベースの奏法が全然ダメ」と感じた僕は、
基礎を身に付けるためにクラシックのレッスンに通うようになり、数年はクラシックの練習ばかりしてました。

その当時、JAZZの先輩の中には
クラシックなんか練習して何してんねん!?などと言う人もいて、“バカ”にされたりしたけど、今となってはクラシックをやっておいて良かったと思っています。
音楽論などは現場で曲を演奏しながら身に付けた(と思います)。
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   ━ セッションの日々 ━


僕がJAZZはやり始めた頃はまだまだ景気が良くて、大きなJAZZ FESTIVALがよくありました。

毎年のようにビッグネームのミュージシャン達が日本に来ていた。最近、JAZZの巨匠達の訃報を相次いで耳にするが、そんな偉大な
巨匠達の演奏を生で聴けた最後の世代なのかもしれないと思う。
貴重な体験をしたと今になって思います。
 
Tommy Flanaganと
当時はキャバレーに生バンドが入ってたり、ホテルのラウンジなどにも必ずJAZZのバンドが入っていました。今では、もう考えられない良き時代でした。



その頃、大阪の梅田にミュージシャンの溜り場みたいな店があり、僕らは毎晩のようにその店に集まり、
朝までジャムセッションをしていました。

安いボトル(ウイスキー)をキープして思いっきり飲んで、皆で演奏をして、酔っ払い同士が音楽について語り合って…。そんな毎日。

飲酒運転は当たり前。飲まずに車を運転する事の方が珍しかったくらいでした(僕は過去に2回、酒気帯び運転で捕まった事があります。。。ごめんなさい)。
車を駐車場に入れるなんて事もしなかった。これまた路上駐車も当たり前で、現在では考えられないが、それが普通でした。

そんな頃、アメリカからコンサートやライブで来たミュージシャン達とジャムセッションをする機会がよくありました。その当時に撮った写真が、少ないけど残っています。画像をクリックしたら拡大されるので、よかったら見ていってください。
Tommy Flanagan Keter Betts

Sir Roland Hanna Roger Kellaway

1991 1992 2001 2006
George Mraz Peter Washington

Hank Jones Herbie Hancock Scott Hamilton

Carol Sloane Chuck Redd Chuck Riggs
&Allen Farnam
 
今、関西のJAZZミュージシャンはシラフで演奏し、駐車場から車を出して帰るのが当たり前になってしまいました。
ライブが終ってから飲みに行って音楽談議で盛り上がるなんて、
もう昔の話しになってしまったような気がします。
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   ━ 魚釣り ━

それまで、ベース&JAZZ一辺倒だった僕も
趣味をもつようになり色々な事をやったりしました。その中で一番長く続いたのが釣りです。今の趣味はボディービルですが…(笑)

父親が漁師をしてたり、子供の頃から釣りはやっていてノウハウは知ってたので、釣り場を見付けて、魚に合わせた釣り方をするだけでした。
釣りはハマリました!それに費やした時間をベースに使ってたら、今頃は…。。。
 
みんな誰でも何かの息抜きも必要じゃないかな?それが僕には釣りでした。



始めは家の近くで子アジ釣りなんかしてましたが、そのうち太刀魚やチヌ(黒鯛)を狙うようになりました。それは立派な
釣りバカ誕生でもありました。

特に
チヌ釣りが好きになりました!釣り方は落とし込みという釣法。

防波堤の壁ギリギリに釣りの仕掛け(エサの付いた針と糸)を入れて、自然の状態と同じようにエサを水中に沈ましていく。防波堤の壁の下にはチヌが上からエサが落ちてくるのを待ってます。
釣り糸には15cm間隔くらいの小さな印が付けてあり、この印糸が水中に入っていく様子を凝視します。

チヌがエサを口にくわえた瞬間、印糸に変化が出ます。沈んでいくのが止まったり、小刻みに振動したり、沈むスピードが速くなったり、逆に印糸が上がってきたり…。
波もあるので、
かなりの集中力が要ります
しかも
チヌは警戒心が強いので、違和感を感じたらエサを口から離します。瞬間勝負でもあり、知恵比べでもあり、かけ引きが面白い釣り方です。

エサも季節や条件によって使い分けます。
防波堤の壁を見たら色々なエサになりそうな物があります。
カニがいます。梅雨明け頃には黒い二枚貝が防波堤の壁一面に付着します。フナムシもいます。他にも色々とチヌのエサになる物があるけど、その中からチヌが今食べたそうな物をチョイスして針に付けて(人間も暑い時はビールを飲みたくなり、寒い時は鍋を食べたくなるのと同じです)、仕掛けを壁ギリギリに落としていくのです。



大阪湾は水が汚れているのでチヌ釣りには適しています。チヌは警戒心が強く、澄んだ水の場所ではエサを口にしてくれません。

釣りに行く前に煙突から出てる煙の方向を見て、風向きで判断します。
これが
南西方向からの風なら“Goです。この風の時は水が茶色のコーヒー色になり、チヌの警戒心も緩みます。東向きの風の時は天気が崩れる前ぶれでもあり、水も澄むのでとりあえずパス。そして北向きの風の時は絶対行きません。その時は水が澄み、水温も下がるので、まず釣れません。
朝5時に起きて、一番の渡船に乗り、沖の防波堤へ渡って釣り開始。
仕掛けを落とし込んでは5m間隔くらいで移動します。釣りの最中はずっと歩きっぱなし。日によっては5Km以上を歩いて移動します。昼の渡船で帰って、少し昼寝をして演奏に行くなんて生活を週に3日くらいしてました。

釣りに行かない日は仕掛け糸作り。エサも、カニやら貝を
自宅で飼育してました。


音楽仲間に釣りクラブを作ってる人がいて、「鷲見ちゃん、一緒に釣りに行こうなぁ〜」「会費要らんからクラブに入ってぇなぁ〜」と言われたので、その
釣りクラブに入りました

そのクラブは旬の魚を釣るという会。春はメバル、初夏はキス、夏は鮎(アユ)、秋は鯛、冬はわかさぎ、などなど、釣れる物は何でも狙うし、釣り方もさまざま。

しかし、
僕は鮎釣りだけはしませんでした。

鮎釣りは第一に道具が高い!釣竿も高い物は60万円。
第二にハマル人が多く、鮎釣りのシーズンになれば毎日のように釣りに行き、
会社をクビになったり、女房に逃げられたり…とか、よくある話しらしいです。
僕が鮎釣りをしたら、どんな事になるか容易に想像が出来たので、
鮎はパスしました。



そのクラブは船釣りをする事も多く、僕は
船からの釣りを面白く感じるようになりました。

そうしたらどうなるか…。船舶免許をとり、ボートを買う。もちろん、その通りの事になりました。だから凝り性は困るのです。小さいボート、大人3人乗りです。でも子供ばかりを乗せるなら、僕を含めて5人乗れる(笑)

小さいけど、そこらの漁船と同じくらいのスピードで走るので問題無し!ただ、波には弱いから、風の弱い日しか出せないけど。。。

防波堤で
さびき釣りをした事がある人は多いと思います(カゴにあみえびを入れてアジなどを釣る)。でも、これってアジの群れがそこにいないと、いくらやっても釣れないんです。
でも、ボートで100m離れた所に行くだけでエサが無くても釣れまくります。魚群探知機で魚の群れを見つけるだけ。簡単なもんです。

沖に2Kmも出たら、岸の人からボートは見えないと思います。

そこは別世界!
トビウオが100m以上飛ぶ姿が見れたり、エイやサメもいるし、海ガメもいます。たまに海ガメが釣りをしてる時に、水面から顔を出して、こっちを見てる時があります(その姿はまるでETが海から出てきたようで笑ってしまいます)。潜水艦なども通っていきます。

沖に一人でいたら、仕事の事やイヤな事など
全てを忘れられます
海は広いな大きいな!自分の小ささがよく分かります。(飛行機に乗った時も「地球って大きいな」と感じます)悩み事なども、凄くちっぽけな事に感じるから不思議ですね。



海に出たら、人間と自然が共存しているのを感じます。

よく
気圧が下がったら気分がさえないという言葉を聞くけど、その通りでしょう。
予想天気図を見たら気圧や等圧線が書いてあるのはご存知と思いますが、気圧の違いで風が吹くし、天候の予測もします。

それと同じく
月の満ち欠けを見ます。旧暦(月齢)で潮まわりが判ります。
引力で潮流が生まれます。地球・月・太陽が直線に並ぶ新月(旧暦の1日)や、満月(旧暦の15日)の時に大潮となり、月と太陽が90度の角度になる上弦や下弦の月の時(旧暦の7日頃や22日頃)には小潮となります。地球と月の位置関係が関わっています。

それはきっと人間にも大きく影響してると思います。
漁師と話しで「今日は何日」とか喋る時は、普段使う太陽暦の日にちじゃなく、旧暦の日にちを使います。

海に出るようになって、人間と自然の関係の密接さを知ると共に、自然の怖さも体験しました。
大潮の日の流れが強い時間帯は、川が氾濫した時のように潮が流れます。
しかし、そんな
潮の早い場所で釣った魚は本当に美味しいですよ!魚が嫌いな人に、魚を全部食べられてしまった事もあります。

腐っても鯛という言葉があるけど、本当の鯛は絶品です。
それは釣り人や漁師しか食べれないかもしれませんね。
サバの刺身もそうです。サバは「生き腐れ」と言われるくらい鮮度がスグに落ちます。皆さんも釣りをして美味しい魚を食べましょう!

日本の釣りは、釣った魚を綺麗に食べてあげるのがお決まりのルールで、魚に対しての供養だけど、最近流行りのルアーフィッシングは遊びと考えられているので、釣った魚はまた放します。個人的にはそっちの方が可哀そうと思うのですが…。

そんな僕も今は全く釣りに行ってません。エンジンも一年以上かけてないので、ダメになってるかもしれませんね。
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   ━ Walter Norrisとの共演 ━


2006年12月・南イタリアのキエーティの音楽祭で、オーケストラと共演するNorris氏

皆さんは
Walter Norrisというピアニストをご存知でしょうか?
「No」と答える人が多いかもしれません。

しかし、多くの音楽評論家は口を揃えて、Walter Norris氏を絶賛します。
Norris氏を表す言葉は、現代のアート・テイタム、類まれなハーモニー感覚とその論理性など…、ほとんど共通の意見です。それは実際にWalter Norris氏の演奏を聴いたら理解できると思います。

そのNorrisさんと、2003年10月24&25日にDuoの演奏をする事ができ、それは、僕にとって大きな出来事で、
音楽的革命が起きたかのようでもありました。

Walter Norris氏の経歴を(簡単にですが)紹介させてください。

1931年、アメリカ・アーカンソー州生まれ。5歳からクラシックを学び、LAで西海岸の名手たちと共演を経て、1959年に活動拠点をNYへ。サド・ジョーンズ&メル・ルイスOrchestraのピアニストとしても活躍。その後ドイツ・ベルリンにへ拠点を移し、現在もベルリン在住。ベーシストのジョージ・ムラーツや、アラダー・ペゲなどの名手と数々の名盤を録音した人です。



2003年の秋、Walter Norrisは故郷のアーカンソー州にて、
“音楽の殿堂入り”を果たされました。そして、そのWalter Norrisの演奏を「実際に(生で)聴いてみたい」とのファンの要望で来日が決まり、この共演が実現しました。

JAZZを聴き始めた頃から、Norrisさんは僕のアイドルでした。

特に近年の演奏には凄い物を感じていました。

その中の一つは和音の使い方です。精密な機械で計算され尽くされたようなイメージ。それはNorris氏でしか聴くことができない。
そして、その音楽は芸術的・美の要素を多く感じる演奏でもあり、クラシック音楽のピアノ奏法をJAZZに巧く取り入れている印象を受けました。

その誰の演奏からも聴く事の出来ない音使いを、生の演奏で聴いた時は
正にカルチャーショックだった」としか例えようがなかったです。しかも、共演できるなんて…。

ライブは大阪・堺筋本町にあるJazz Club “OverSeas”で行われました。
ライブの前々日、ドイツから大阪に着いたNorrisさんは、早速“OverSeas”に顔を出してくれました。その夜は僕が演奏をしてた日でもありました。

CDで、もちろん演奏は聴いていて、
「凄く気難しい人かな?」と思ってたけど、普通にアメリカの田舎にいるオッチャンのような人柄の方でした(ひと安心)。。。

その日の演奏が終り、お客さんが帰ったあと、Norrisさんはおもむろにピアノを弾きだしました。驚愕!!!「CDと同じ音(当たり前ですが…)が!」
それは紛れもないWalter Norris。普通のオッチャンではありませんでした。その時の事は一生忘れることができないでしょう。

その二日後ライブの当日(初日)になりました。早い時間に集合してリハーサル開始です。
Norrisさんのアレンジは奇抜でもあるが、自然に出来てる。「カッコイイ」という表現しか思い浮かばない。

僕は譜面を見ながら、音符を追いかけてベースを弾いてました。そうしたら、
「譜面はどうでもいいから、感じた事をやるんだ!」と言われました。「何を弾いてもいい。」

リハーサル風景
それはJAZZを演奏する人の多くが言う。
当たり前のようだが、「そうだ!
JAZZは即興演奏なんだ…」NorrisさんみたいにJAZZの歴史と共に生きてきた人の意見を聞いて、ジャズ・ミュージシャンとしての考え方を再確認させられたような思いでした。

Norrisさんの右手が弾くメロディーはアート・テイタムを彷彿させる。そして和音の使い方。その新しいピアノ・サウンドはJAZZが進化し続けているのを体感する事ができました。

リハーサルが終り、Norrisさんはいったんホテルに帰って、演奏前に“OverSeas”へ戻ってきました。
リハーサルの時、僕が赤いシャツを着てきてたので、同じ赤いシャツでNorrisさんは現れました。
そんな所にまで心配りのある人なんですね!いちいち感動してしまいました。。。
演奏でも、僕を同じ目線でみてくださり、プレッシャーなども感じることなく自由な発想で出来ました。

一日目の演奏も無事に終り、帰って深酒をしてしまいました。そして二日目。また早く集まってリハーサル。きっと僕は酒臭かったんじゃないかな?すみません。。。
その日は“OverSeas”のスタッフ・トレーナーを着て行きました。
前の日に、Norrisさんに「明日はどんなシャツで来る?」と訊かれたのだが、「さぁ・・・??」と答えて、ワザとトレーナーを着て行ったのです。
意地悪ですねぇ。僕って。

右の写真を見てください。スゴイでしょ!?真の音楽家の顔なんでしょうね。
二日目は紺色のシャツのNorrisさん。写真のシャツの色を見たら、一日目か二日目か判ります。
演奏も楽しく、一瞬で過ぎ去る時間を感じながらも、真の音楽を僕に教えてくれてるような錯覚を覚えました。

そして、演奏が終り、最後に譜面を入れていたファイルに、長いメッセージとサインを頂きました。「
また次の演奏のために持っておくように」と…。
本当にいい体験をさせて貰えました。


       
最近のWalter Norris氏の活動

2006年は、プッター・スミス(b)とDuoで録音。在住しているドイツのTVでドキュメンタリー番組が放送された。
2007年は、アメリカ製作のドキュメンタリー映画が公開される予定です。
それと同時に、CD、自伝、エッセイなどが作られるみたいで、楽しみに待ち望んでいます。
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Charles Parker

   ━ 僕の考えるJAZZ ━

今までJazzの歴史的巨匠とセッションをしたり、話しをする事も出来たり、色んな事を学んできました。

わずか100年前に生まれたJAZZという音楽が、ここまで発展してきたのは、
JAZZの大前提がアドリブ(即興演奏)だったからだと思います。

よくJazzの歴史に、デキシーランド⇒スィング⇒ビ・バップという流れがあったと聞きますが、ビ・バップからJazzが大きく変わり、
ビ・バップがモダン・ジャズの原型になった事は紛れもない事実と思います。

最も知られてる人の名前を挙げるとしたら『Charles Parker』(1920年8月29日〜1955年3月12日)でしょう。
 
1945年から1948年に掛けてが彼の活動の最盛期であり、天才的なひらめきを伴ったそのアドリブは伝説化している。「モダン・ジャズ(ビ・バップ)の父」とも言われ、初期の頃よりヤードバード(Yardbird)と呼ばれており、後に単にヤード、或いは、バードとも呼ばれ、特に後者が親しまれた。
NYにあるバードランドもパーカーに由来し、“Lullaby of Birdland”" といった曲などもあります。

パーカー達の出現によりJazzが急速に変わっていったのを当時の人達はどんな気持ちで受け止め、聴いたのだろう?って考えたりします。自由な発想により複雑化するメロディーやリズム。理解に苦しんだ人も大勢いたのではないのでしょうか?

でも、好き勝手にやっていいという事ではなく、ある程度の決まりはあり、会話と同じで、Jazzも同様だと思います。いきなりワケの分からない事を言ったら…それは誰にも理解してもらえないのではないでしょうか?

Jazzという音楽を通して、いかに面白い会話が出来るかを考えながら、僕はそれに日々努めています。

そのJazzが複雑化して、大きく変わった後に、正反対にシンプルで削ぎ落とされた音楽(Rockなど)が出来てきましたが、今はJazzが勢力的に負けてますね…。頑張らなければ。。。
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   ━ New York Blue Note ━

もし、自分がJAZZという音楽にめぐり合っていなかったら、旅行であろうが、何であろうがニューヨークへ行く事はなかったと思います。今でも料理の仕事をし、包丁を持ち、中華鍋を振っていた事でしょう。

ニューヨークはJAZZの街。初めて行った時にそう思いました。
そして、
世界中の様々な分野のスペシャリストが集まり、活気にあふれ、刺激的な場所。特に芸術を目指す人には、こんなに刺激的なところは無いのでは…と思います。

右の写真は、まだJAZZをやり始めた頃です。
記憶では1991年。25歳の時だったと思います。10日間くらいの旅行でニューヨークに遊びに行きました。
この頃は今と比べたら治安もあまり良くなく、ニューヨークは危険な街というイメージが強かったです。


2001年の6月
に、これまた遊びで2週間くらい旅行へ行ったのですが、この頃には治安も良くなっていて、地下鉄も綺麗になり、随分と印象が変わっていました。

タバコを吸える場所も限られるようになっていたので、この時を機会に、私はタバコを吸わない人(禁煙者)になりました。
(この時から身体を鍛えようと思い、ウェイトトレーニングを始めました。)


2004年
にまたニューヨークに行きました。もうこの時には全ての飲食店が禁煙になっていました。タバコを吸いながらJAZZを聴くなんて、もう昔の事になっていました。レストランの外でタバコを吸ってるのは日本人ばかり…。ちょっと悲しかったです。

この時は個人的な旅行ではなく、演奏の為に行きました。
しかし、演奏する事以外は、昼にはチャイナタウンで、夕暮れ時にはブルックリン・ブリッジに行ったりと、相変わらずの行動をしていました…。

夜は日本料理屋さんに飲みに行く事が多かったが、一軒変わった店がありました。
店の玄関に鍵がかかってるのです。表にはインターホンがあります。『山⇒川』みたいな感じで、許可された人しか店に入れない仕組みになっていました。
何故かというと…、店の中では日本人がバカスカたばこを吸ってるのです(爆笑)
本当、日本人って、たばこが好きですねぇ〜〜〜。

上の写真(左から二番目)のブルックリン・ブリッジから見えている
世界貿易センタービルのツインタワーは、写真を撮った三ヶ月後にアメリカ同時多発テロ事件で崩れてしまいました。心が痛みます。

事件からちょうど三年後の9/11の夜、いつものようにマンハッタンの夜景を見ようと、夕暮れ時からブルックリン・ブリッジを、マンハッタンからブルックリンに向かって、後ろを振り返らずに歩き始めました。

そして、橋の真ん中くらいに差し掛かった所で、マンハッタンを振り返りました。
すると、グランドゼロ(世界貿易センター跡地)から、
二本の太いレーザー光線の柱が空の一番高い所まで照らされていました。

それは、世界貿易センターが建っているかのようでもあり、その日だけにしか見れなかった光景だったようです。しかし、そのレーザー光線の光に、自家用飛行機で突っ込むという、非常識な事をする人もいました。

今回のニューヨークでの
楽しみの一つに“牛丼”がありました。この時、日本はアメリカ産牛肉が輸入禁止になっており、業界最大手の『吉野家』から牛丼が消えて、豚丼になっていたからです。
しかし、
ここはアメリカ!国産(アメリカ産)牛肉が食べ放題です!
幸せでした。よほど気合いが入ってたのか、この注文の量。

ちなみに、味は日本と同じです。でも、水は日本のようにタダではありません。買わないとダメなんです。水飲み(一日に多い日は10リットルくらい飲む)の私としては、「日本の生活が合ってるなぁ〜」と感じました。

ちなみに、この『吉野家』はブロードウェイ・ミュージカルの劇場が建ち並ぶ、42nd Streetのど真ん中にあります。恐るべし“yoshinoya”。。。

今回のニューヨークへの目的は、N.Y.のBlueNoteでの出演がメインでした。


日本のブルーノートは(私は大阪店しか知らないのですが…)広いし綺麗だし、ステージも広い。
しかし、ニューヨークは、玄関も壊れかけみたいな感じだし、ステージも店も狭いです。楽屋も狭い。体の大きい人ばかりだったら、どうするのでしょうか?

昔、N.Y.のBlueNoteに聴きに行った時、20人編成くらいのバンドが出演していました。BlueNoteの二階にはトイレとバンドの控え室があるのですが、その時はお手洗いに行きたくてもバンドのメンバーだらけで、困った記憶があります。
なかなか思い出に残った、BlueNoteでの演奏でした。

これからも、音楽を通して、自分を磨き頑張っていきたいと思います。

応援、よろしくお願いします!  鷲見和広

 
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