よく聞かれる事があります「鷲見三郎さんの親族ですか?」って。。。
1902年生まれの鷲見三郎氏(1984年没)は伝説のヴァイオリン教師。ある時期、日本の著名バイオリニストのほとんどが「鷲見の門下生」といわれるほど、傑出したバイオリン指導者だったらしいです。
その鷲見三郎氏も同じ米子市出身。米子市尾高町で22歳まで生活をしてらしたみたいです(尾高町は米子市街地から大山“だいせん”に行く途中にある集落)。
右の画像は、同じく米子市尾高町にいた頃の鷲見和広です。同じ姓・同じ場所で育ちましたが、親戚でも何でもないのが残念。。。 |
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右上の画像は、僕が幼稚園に入園する前。嬉しくて新しいカバンを提げて記念撮影しました。その時の事は今でもよく覚えています。しかし、入園前なので、きっと三月。なんで上半身裸なんだろう??暑かったのかなぁ?
しかし、幼稚園に行っても人と仲良くなれず、喧嘩をするばかりで月のうち半分くらいは休んでました。 |
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小学校に入っても喧嘩ばかりするので、先生に怒られる為に学校に行くようなもんでした。だから小学校もよく休みました。たまに帰省した時、当時住んでいたその所を車で通ったりするけど、すごく道幅が狭いと感じます。子供の頃はそんなこと思わなかったけど…。子供の目線と大人の目線は違うんですね。
この小学校には1年生の時だけ通い、引越しをしたので2年生の時に違う小学校に転校しました。
もちろん知らない生徒ばかり。田舎だったので転校生が珍しいのか、皆ひそひそしながら僕を見ています。そんな中、一番最初に声をかけてくれたのが“K”君だった。
その“K”君は学年一の悪ガキだったけど、その“K”君とは最も仲が良い親友になりました。彼のやる事は滅茶苦茶。学校にもローラースケートや自転車で来たり…。
僕は親に“K”君とは遊ぶなと言われもしました。彼は勉強もまったくしなかったし、先生の言う事も聞かなかったけど、僕の言う事はよく聞いてくれた。
僕は筆箱とかも買ってもらえなくて、小学校のホームルームの時間の話し合いで、「鷲見君に筆箱を買ってあげるように、鷲見君のお母さんに頼みに行こう」などという議題が上がるほど、あまりいい育てられ方をされませんでした。
ご飯もちゃんと食べさせてもらえなかったので、給食が何よりも楽しみだった。(鯨の生姜焼き、美味しかったなぁ〜)
その小学生の頃に、カルビーのポテトチップスが発売された事もよく覚えてます。その当時は品質が安定してなかったのか、ハズレに当たったら凄くニガイ味の物がよくありました。最近はもうそんな事ないけどね。
中学校からは、当然ちょい不良(ワル)。“K”君と遊んでたら仕方ないかぁ(笑)
僕が通ってた中学校は給食があったので、それは凄く助かりました。夜ご飯は、白飯の上にスナック菓子をかけて食べたりしてたから…。実はこの食生活、僕がJAZZの道に進むキッカケになりました。(後述)
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| 僕は高校に進学したけど、“K”君は料理の修業に住み込みで働きに行きました。それでも休みの日は決まって遊んでた。右の画像は高校一年生の頃、米子のバーで飲んで酔っ払ってるところ。彼との2ショットは後にも先にもこの一枚しかないです。 |
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高校に入ったら給食が無いので、みんな弁当か食堂で昼メシを食べるけど、僕は毎日、弁当箱に白飯だけ入れて持って行き、おかずは人に少しずつ(強制的に?)分けてもらって食べてました。(皆には凄くイヤがられたけど…)
またこの頃には色んな出来事がありました。国鉄がJRになったり、500円硬貨が出来たり…(しかし、あの2千円札はどこに行ったのでしょう?)。
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高校時代には一通りの悪い事をしたかな?
お酒・ワンカップの自動販売機、昔は取り出し口から手を入れたら抜き取る事ができたりした。ネットで時効の期間を調べたけど、僕がやった事はすべて時効になってるみたい。でも、わざわざ喋ることもないので黙っておきます(汗)
僕は高校3年生の卒業間際に3回目の停学処分になったけど、毎日反省文を書いて学校に送った為に無事卒業が出来ました!もう一人同じように3回目の停学処分になった友達がいたけど、反省文を書かなかった為に退学になりました。残念。。。
高校(工業高校だった)も卒業シーズンになり、僕の科(工業化学科)の生徒達は化学関係のいい会社(鐘紡・京セラなど)に就職していきました。
僕は普通の会社に就職する気はまったく無く、子供の頃から「大人になったら美味しい料理を腹いっぱい食べたい」との夢を達成する為に調理師になろうと決めてました。(これには“K”君の影響もあるのかな?)
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料理を勉強するには“天下の台所”大阪しかないと思い、好きな米子と別れて大阪に行く決心をしました。大阪行きの高速バスに乗り出発する時、たくさんの後輩達が見送りに来てくれた。
僕は“お山の大将”だったけど、後輩の面倒はよくみてたので、見送りに来てくれた事が凄く嬉しかった。
バスが出発して、米子と別れること、仲間と会えなくなること等が悲しくてずっと泣いてしまった。本当に皆が好きだったから。
米子の変わってるところは、元旦からぜんざいを食べる。“雑煮”といえば“善哉”である。あと、羊の肉(マトンやラム)を普段から食べる。大山(だいせん)のふもとの街だからかな?
大阪では専門店しか売ってなく高いが、米子はスーパーで安く買える。子供の頃は安いからマトンばかり食べていた。
最後に、“K”君との2ショットは「後にも先にもこの一枚」と書いたが、彼は平成12年12月12日に自ら命を絶った。とても悲しい出来事で、涙が枯れるまで泣いた。
僕の右目の斜め上に傷がある。小学校2年生の時に野球をして遊んでる時に、“K”君の振ったバットが思いっきり当たった。血が噴き出し救急で病院に行ったけど、「この傷は一生消えない」とお医者さんに言われた。
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| もっといい物を残して欲しかったな…。 |
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